本地大塚古墳・駒前1.2.3号墳
2022/3/5
本地大塚古墳の説明板
瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。この土地では「誉牟治別命」の墓という伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。同 51年、瀬戸市の文化財(史跡)に指定された。

出土遺品 1 須恵質円筒埴輪(高さ40p余り) 2 須恵質形象埴輪(水鳥・馬・人・家など) 3 須恵器(蓋坏(ふたつき)・瓦泉(はそう)・高坏(たかつき)など
成立年代 この古墳の成立は、出土遺品から推測すると5世紀末から6席初め頃と考えられる。その後市内に盛行する群集墳に先行するものである。
前方後円墳の規模 1 中心部の長さ 33m 2 円部の直径 22.5m 3 方部の幅 11.7m 
本地大塚古墳 <瀬戸ペディア(瀬戸のHP)>

本地大塚古墳は、瀬戸市の南西部に所在する前方後円墳である。一説にはこの子墳墓は応神天皇の皇子誉牟治別命(ほむじわけのみこと)の陵であり、本地村の村名の起こりとなったと言われている。
墳丘は全長33m、後円部の径は22.5mで、いわゆる帆立貝式古墳である。昭和34年に発掘調査され、墳丘部より須恵質円筒埴輪・朝顔型埴輪・形象埴輪・須恵器などが出土しており、それらの資料から5世紀末から6世紀初頭に成立した古墳であることが判明している。瀬戸市内最大・最古の古墳である。

駒前1号墳 <瀬戸ペディア>
 瀬戸市域の南部は山口川(矢田川)が東西に細長い沖積平野を形成、北に菱野丘陵、南に幡山丘陵が展開している。駒前第1号墳はこの幡山丘陵から段丘面に向かって小さく張り出した支丘先端の標高93mの位置に在る。仏法山寶生寺の境内裏山で、平成10年墓地造成工事の事前発掘調査が実施された。
 調査から、古墳1基とそれに伴う主体部1基、墳丘を取り巻く埴輪列が検出され、埴輪列の残存状況から瀬戸市域では始めての一辺が14mの方墳であることが確認された。小支丘の先端部の北側と西側に大量の土砂で盛り土をして墳丘を作り、0.5m〜1m間隔で埴輪が配置されていた。埴輪列は円筒形埴輪を主体に、朝顔形埴輪・形象(家形)埴輪が出土した。主体部は墳丘中央やや東寄りに東西を主軸に1基構築され、全長3.3m、幅0.8〜1mの粘土郭(木棺直葬)が確認された。出土遺物としては、先の埴輪類の他に蓋杯・高杯・壺・大甕などの須恵器で実年代では5世紀末葉に比定された。鉄製品では鉄刀2点、鉄斧、刀子、鉄鏃、金具類があった。
 本古墳の同一丘陵上には駒前2号・同3号古墳が在り、いずれも円墳と考えられる。また、眼下北西150mの地点に瀬戸市史跡指定の本地大塚古墳(前方後円墳)が分布する。
参考資料へのリンク   本地大塚古墳と駒前2号墳の発掘状況   出土遺品
 駒前1号墳:寶生寺山門横を登った丘陵地の端に古墳があったことを示す碑が立つ。発掘調査後に滅失。
 駒前2号墳:尾張えびす大黒社西側の御岳神社付近にあるという情報もあったので、出会った寶生寺住職にも尋ねてみたが場所については分からなかった。
 駒前3号墳:携帯電話の電波塔の南東約50mにあって、円墳状の小山の脇に地元の建材店による石碑が立っている。しかし、南東側を除いて土砂の採掘が進み、周りは崖となっていて容易に近付ける状態ではない。
 
B<矢田川堤防から眺める駒前3号墳>
C <河岸段丘上の本地大塚古墳--中央茶色い建物の保育園横>
D <本地大塚古墳>
E <駒前1号古墳碑>
Fの先<尾張えびす大黒社・電波塔>
<電波塔から約50mの駒前3号墳>
雑感・その他
・矢田川両岸に広がる平地はそれ程広いとは言えないが稲作可能で古くから邑を治める有力者も存在したと思われる。伝説であっても、古墳時代の皇族「誉牟治別命」の墓が本地村の名の起こりとなったのは興味深い。
・多くの古墳は墓ということで畏れ多いものとして千年以上も保存されてきたが、明治以降の産業発展や最近の大型開発によって急速に消滅が進んでいるようだ。現代人の生活も古からその地域に住んだ人々の生活の積み重ねの上に成り立っていることを思うと過去の時代の証が消えていくことは寂しい。
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